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5代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1884年(明治17年)10月 - 1940年(昭和15年)1月23日)は、東京の落語家。本名、村田源治。通称「デブの圓生」。(約85キロもある巨体であったため)。弟は5代目三遊亭圓窓。6代目三遊亭圓生は義理の息子(妻の連れ子)。また一時兵役逃れで4代目三遊亭圓生門下の三遊亭桃生(堀江元次郎)の養子になっていたことがある。 ==来歴・人物== 下総八街の宿屋「梅屋」の家に生まれ、父は入婿で芝愛宕下で大工をしていた、6歳で実父は出奔、親戚に預けられ14歳で足袋店に奉公するなど、波瀾に満ちた少年時代を送る。1902年(明治35年)の19歳で奉公先を飛び出し剣舞の日比野雷風一座(日比野雷風正吉)に1、2年程加わったり旅回りの一座に加わるなど苦労を重ね、1905年(明治38年)に旅回りの一座で知り合った4代目橘家圓蔵一門に入り、橘家二三蔵となる。1909年(明治42年)橘家小圓蔵で二つ目、新進気鋭の若手として注目され、1912年(明治45年)に3代目三遊亭圓窓を襲名し真打昇進。 1915年(大正4年)3月には当時では珍しく講釈師の坂本富岳らとともに落語家として初めて横浜から渡米して興行。1916年(大正5年)9月に帰国。師匠圓蔵ともども落語界の重鎮として活躍。師匠圓蔵の死後、1922年(大正11年)2月、5代目橘家圓蔵を襲名し、一門を率いると共に関東大震災を挟んで芝宇田川町で寄席「三光亭」を経営にも乗り出した。4代目圓窓は義理の息子である5代目三遊亭圓好(後の6代目三遊亭圓生)が襲名した。1925年(大正14年)1月、5代目三遊亭圓生を襲名。6代目圓蔵は4代目圓窓(後の6代目圓生)が襲名し、5代目圓窓は実弟三遊亭圓都が襲名した。この間所属の演芸会社を脱退、以降東西会、睦会に所属。1927年(昭和2年)には初代柳家三語楼の落語協会入り。1930年(昭和5年)睦会復帰し1934年(昭和9年)に同会会長に就任もすぐに脱退し東京落語協会に移籍。 得意ネタは前述の「首提灯」のほか「三十石」「お若伊之助」「文七元結」「らくだ」「三年目」「夢金」など、相撲取りのような身体なのに高座で娘を演じると、はたして娘に見えたと言う伝説を持つ。また、単行本や雑誌などに数多くの速記を載せている。 1940年(昭和15年)1月に風邪気味をおして寄席に出演、「首提灯」を演じる。帰宅し雑煮を食べた後容態が悪化、同月15日死去。 残されているSPレコードは少ない。墓所は世田谷区永隆寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三遊亭圓生 (5代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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